ハタの、スタッフになったワケ 
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広島と言えば平和記念公園(原爆ドーム)、宮島、お好み焼き、牡蠣(カキ)、カープ、サンフレッチェ、
そしてハタトシヒコ。
こんな俺とメインストリームとの出会いは、
メインストリームが主催していた「障害者甲子園」という大会だった。
「障害者甲子園」は全国から障害のある者50人と
阪神間の高校生ボランティア50人が西宮に集まり、
障害者の自立や人権、進路などを本音で語り合うという合宿だ。

そこに、その大会の参加呼びかけをNHKラジオで聞いた母が、
中学2年だった俺に『高校生になったら参加してみたら?』という一言だった。
そのことを覚えていた俺は高校1年の時に応募する決意を固め、
生まれて初めての一人旅をした。(西宮までの一人旅は、この大会の参加条件でもあった)

そこで出会った“ハチマキおやじ”から
『一人暮らしをするなら西宮からやでぇ〜』という言葉を聞いて
当時、素直な性格の俺はその言葉をうのみして「高校卒業したら、西宮に行くぞ!」と
人生設計を立てていた。

実際に自立生活をスタートさせたのは、1998年6月だった。
自立と同時にあの“ハチマキおやじ”から
『家おってもやることないんやったらスタッフになれや〜』という一言。
素直な俺は、ワケのわからんままなぜかスタッフ会議に出ていた。
当時は健常者スタッフ、当事者スタッフも少なく面接もなかったから
「やる」と決めたらスタッフになれていた時期だ。(すっげえ運が良い)
でも、「障害者甲子園」の恩返しをしたい!!ただ、それだけだった。

しかし、当時の俺はスタッフになって何をやったら良いかわからんし、
やる事は中途半端やし、あの頃の俺は何もわからんかった。
スタッフとしての【自覚】が足りてなかった・・・。

それが、わかり始めたのは6年前に二次障害で3ヶ月半にわたっての入院の時だった。
俺は何のために自立・スタッフとなったのか?
“障害者甲子園の恩返し”をしたいから西宮に出てきたのではないかと。
その時本気でこの仕事を一生やっていこうと決めたのだ。

それから、俺のウリを考えた時にいつもの「明るさ、笑顔、勢い」の
3拍子を前面に出していこうと決めた。

これからの俺はスタッフとしてだけではなく、俺のウリの3拍子で、
『日本の社会を変えたい!アジアの社会を変えたい!世界の社会を変えたい!』
どんな障害があっても地域であたりまえの生活が送れるような社会に
少しでも力になれるような存在になりたい。

何か堅苦しい文章になったけど、
結局はメインストリームのみんなと「ワイワイ」「ガヤガヤ」と『一丸』となって
“オモロク”時には”マジメ”にいろんな場所で活動していける場所があるから、
今の俺があるんやと思う。

文章で『自分らしさ』が出てないから、
このページを見た人はぜひ、俺を捕まえて酒でも飲みながら語りましょう!!