ウエキの、スタッフになったワケ 
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メインストリームとの出会いは、高校2年生の頃でした。
その頃は養護学校に通っていたのですが、
先生からメインストリーム協会が主催している「障害者甲子園」というものがあるので、
参加してみないかと言われたのです。
初めて障害者甲子園という言葉を聞いて、
「なんだそれ!?障害者が野球やるんか?
なんかのスポーツ大会??」と思いましたが、内容を聞いて行ってみようと思いました。
(スポーツ大会でも参加してたと思うけど。笑)

ちょうどその頃、自分は進路の事で悩んでいました。
小さい頃から大学に行く事を目指して親と一心同体状態で勉強してきたけど、
果たしてそれが本当に自分がしたいことなのか・・・。
かといって、大学に行かないと障害のある自分ができる事はないのではないのか、
と当時は自分が本当に何をしていきたいのか分からず、悩んでいました。

それに加えて、もうひとつの悩みがありました。
将来何をしたいのか分からなかったんですが、ただ1つだけしたい事がありました。
それは「障害者プロレス」でした。
その頃自分は、社会の障害に対するイメージが偏っていることに疑問をもっていました。
特に、メディアは障害者を美化しているし、
障害者の表現活動は「きれいで真面目」な感じが嫌で嫌でしかたなく、
そういったイメージを壊したかったんです。
そんな時、障害者プロレスと出会い、少し過激で自由な世界に惹かれていきました。
喧嘩早い性格も加わって、
絶対この団体で暴れまくって名を挙げてやる!!と思うようになりました。
でも、その夢を親に話せませんでした。絶対親に反対されると思ったからです。
プロレスをやりたいと本気で思っていたけど、
なかなか親に言えない…そういう葛藤を抱えていました。
そんな事があって、結構精神的にしんどい時期でしたが、
何か突破口になればと思い、障害者甲子園に参加しました。

障害者甲子園で印象深かった事は2つあります。
1つは西宮に着いてすぐ、足をバタバタさせた若い脳性麻痺の人が
電動車椅子に乗ってタバコを吸っていました。
こんな人もおるんやなぁと思い観察していると、
その人はどうも主催者側のスタッフらしい事がわかりました。
こういう人も働いているなんてすごい!と思いました。

2つめは、障害者甲子園の「進路」という分科会に参加した時の出来事です。
そこでは、同じ年頃の人たちが、それぞれ進路についての話をしていて、
自分にとって有意義なものでした。
なかでも司会進行していた、メインストリーム代表の廉田さんの話は、
今までの自分の考え方を変えるものでした。

それまで考えていた、自立観や人生観を変える話で
「焦らなくても、自分のペースでやればいい」と思えるようになり、少し気持ちが楽になりました。
そうすると自分の夢をみんなに聞いて欲しくなりました。
今までほとんど誰にも言ったことがなかったので緊張しましたが、
いざ言ってみると意外な反応が返ってきました。
「障害者プロレスなら、やってる奴おるで」と、廉田さんが言ったんです!!
めちゃくちゃびっくりしました。
まさかこんな身近に障害者プロレスをしてる人がいるなんて!
分科会が終わったあと、その人に会って、いろいろと話しを聞きました。
夢の世界の人が実際に目の前にいる!と思うとめちゃくちゃ嬉しかったです。
(ちなみにその人は大久保さんでしたが、今全くそう思いません。笑)

障害者甲子園に参加したことで、なんだか自信がついたので、
親に自分のやりたい事はプロレスだということを伝え、渋々ながら了解を得ました。
翌年、入団試験に合格し、いよいよプロレスラーとして活動が出来ることが決まったので、
千葉県にある大学に行くことにしました。そのプロレス団体は東京にあるため、
とりあえず大学に行っとけば関東で生活して、練習や興行に専念できると思ったからです。

そんなこんなで大学生になり、一人暮らしも始め、10試合以上出場し、
レスラーとしてもある程度の人気が出てきた(?)頃、転機が訪れました。
NHK教育TVでやっている番組「きらっと生きる」出演しないかという話がありました。
最初はあんまり乗り気ではなかったのですが、
NHK教育TVで顔面白塗りの障害者が他の障害者を殴ってるとこがでたら
面白いなぁと思い、出演することにしました。
「きらっと生きる」が無事放送され、
リハビリ施設や学校などから講演の依頼があったり、大学の卒論にも追われ、
忙しく毎日を送っていた頃、またNHKから連絡がありました。
年末のETVワイドという番組で障害者の若手とベテランが、
障害者運動について討論をするので出演しないかというものでした。
卒論も締切りギリギリだったので、どうしようかと思ったのですが、
障害者運動についてはとても興味があり、大学でも勉強していたので、
実際に運動して歴史を築いてきた人と議論ができるのはまたとないチャンスだと思い、
依頼を受ける事にしました。

当日、スタジオにはたくさんの障害者が集まって、若手とベテランに分かれて座っていました。
本番までの空き時間に、後ろに座った車イスの人と世間話をしていました。
その人は、メインストリーム協会のスタッフでした。
「メインストリームっていったら、障害者甲子園!」と思い、
「自分も10回目の障害者甲子園に参加したよ。」というと、
「ホンマ?俺、10回目やったらスタッフで参加しとるわ」とその人は言いました。
…!!障害者甲子園で妙にインパクトに残っていた重度の障害者スタッフの姿と、
目の前の人の姿が一致しました。それが畑さんです。
なんかすごい偶然だなぁと思いながら、畑さんと連絡先を交換しました。

この頃、自分は千葉に自立生活センターをつくろうと考えていました。
千葉は当事者団体があまり多くなく、力も弱いので制度が悪く、
本人の希望する時間数がなかなか出なかったりという現状でした。
当時の自分は調子にのっていて、
あまり世間を知らなかったので自分が絶対千葉を変えるんだと思っていました。

なので、メインストリームとのつながりを持っておけば、何か役にたつと考えたのです。
大学を卒業してすぐ、自立生活センターを作るには、
何が大切かについて廉田さんに聞きに行くため、初めて事務所を訪れました。
幼なじみで進路に悩んでいた、茂上を引き連れて…。

初めて訪れたメインストリームの印象は、
「なんかごちゃごちゃして、騒がしいとこだなぁ」と言うものでした。
でも、みんな楽しそうだったし、廉田さんの人柄がとても自由で
それでいて芯が通っている感じでいいところだなぁと思いました。
ちなみに、メインストリームは面白い事が大好きな団体だということを聞いていたので、
板を持って行って「おみやげです」と言って、
空手パンチで、その板を割ってプレゼントしました。
生意気にも板にリングネームを書いて平岡さんたちにプレゼントしていたのは、
今となると恥ずかしいかぎりです…。

さて、千葉の自立生活センター作りですが、結論からいえば挫折しました。
大学を卒業して千葉から介助の支給決定が出るようになり、
1ヶ月の介助時間数がそれまでの160時間から45時間に減らされ、
思うように活動ができなくなったこと、
自立生活センターを作るために集まったメンバーがいきなり空中分解したこと、
いろんな理由がありましたが、そのひとつとして自分の力不足と経験不足があったと思います。

それに月45時間だけの生活は、思ったより厳しく、週に1回は誰も来ない日もありました。
最初は、ひとりでも根気強く活動していくと意気込んでいたのですが、
そんな生活が何日も何ヶ月も続くと段々気力がなくなり、
ずっと家で寝てるだけの生活になり、精神的に病んできました。

そんな頃、玉木さんと畑さんに何回か会う機会がありました。
今の悲惨な状況を二人に話すと「もうこっち来いや」と玉木さんに言われました。
最初は、社交辞令だと思ったけれど、
家に帰った後も何度もその言葉が繰り返し頭の中に浮かびました。
本当に来年行こうか…

介助時間数、月45時間生活で思った事は、
人が力を持って生きていくには、社会的な環境が関わっていると
学校で習ったけどほんとだなぁという事です。
特に障害者の場合、制度によってやりたい事をなんでもできたり、
逆になんにもできなくなったりするという事をこの身をもって実感しました。

そう考えると、今の制度を作って行くために、
今まで運動してきた人達は本当にすごいと思い、
自分もやはりこれからその運動に携わって行きたい、
その為には経験が必要だと思いました。

千葉を離れることには心残りもありました。
でも、今自分に必要なのはメインストリームのような多くの人々がいる団体で
経験を積んで行く事だと考えました。
それに、メインストリームのHPを見て、
メインストリームが大切にしていることのひとつに
「障害者のイメージを変える」ということがあるということを知り、
ますますここで働きたいと思うようになりました。あと、メインってなんか楽しそうだし。

しかしまあ、高校の頃に進路で悩んでメインストリームの障害者甲子園に参加したけど、
まさか本当にメインストリームが就職先になるとは思いませんでした。
人生、わからないもんですね。